氣比神宮(気比神宮・福井県敦賀市)にお参りしました。
このページには、氣比神宮の歴史についてまとめておきますね。
氣比神宮の歴史【由緒】
神代~飛鳥時代【神宮の始まり】
氣比神宮の御祭神・伊奢沙別命(いざさわけのみこと)は、2000年以上前に土公の地に降臨したと伝えられています。
第14代仲哀天皇は国家安泰を祈願するため自ら参拝。神功皇后(仲哀天皇の皇后)も玉姫命と武内宿禰命を従えて参拝しました。
大宝2年(702)になると、仲哀天皇と神功皇后を合祀して社殿を修営。
のちに本殿のまわりに日本武尊(東殿宮)、応神天皇(総社宮)、玉姫命(平殿宮)、武内宿禰命(西殿宮)を祀っています(四社之宮)。
奈良・平安時代【社領の拡大】
氣比神宮の神領は第41代持統天皇の御代から広がり始めます。
平安初期には、能登国の日本海沿岸が氣比神宮の御厨になりました。
また、渤海国(698-926)からの使節が来訪すると、神領だった気比の松原に渤海使のための宿・松原客館が建設されました。
客館は氣比神宮の宮司が監督しています。
南北朝・戦国時代【祭祀の廃絶】
建武の新政から3年後の延元元年(1336)、氣比神宮の大宮司・氣比氏治は後醍醐天皇を奉じて足利軍と戦います(金ヶ崎の戦い)。
旗掲松はこのとき神旗が掲げられたと伝わる木です。しかし、奮戦の末敗れて社領が減じられました。
また、元亀元年(1570)には大神宮憲直等一族が、勢力を広げる織田信長軍に対抗して天筒山城で越前朝倉氏のために戦いますが敗北。社領が没収され、祭祀は廃絶しました。
江戸時代~現代【敦賀空襲】
慶長6年(1601)に、結城秀康が福井藩初代藩主になると、慶長19年(1614)に社殿が造営され、社家8家が復興、社領100石が寄進されます。
当時の本殿は流造を代表するもので、明治39年(1906)に国宝指定されました。
梁には桃太郎像が刻まれており、この地を童話・桃太郎の起源とする説も存在しています。
昭和20年(1945)の敦賀空襲によって、大鳥居を除いた建造物が焼失しました。
その後は、昭和25年(1950)の本殿再建や「昭和の大造営」、平成の御代の社務所新築などを経て現在に至ります。
氣比神宮の歴史年表
- 2000年以上前:伊奢沙別命(氣比大神)が土公の地に降臨
- 大宝2年(702):社殿が修営される
- 天平神護2年(766):松原客館が建設される
- 寛平5年(893):菅原道真が遣わされ奉幣
- 延長5年(927):延喜式神名帳の越前國敦賀郡の項に「氣比神社七座並名神大」とあり
- 延元元年(1336):大宮司氣比氏治が金ヶ崎の戦いに参戦
- 元亀元年(1570):大神宮憲直等一族が織田信長軍に敗北。祭祀廃絶
- 慶長19年(1614):社殿造営
- 明治28年(1895):社号を氣比神宮に改称。官幣大社に列せられる
- 明治39年(1906):旧本殿が国宝指定
- 昭和20年(1945):敦賀空襲により大鳥居を除き焼失
- 昭和25年(1950):本殿再建
- 昭和57年(1982):昭和の大造営に着手
- 平成23年(2011):社務所が新築落成
- 平成28年(2016):氣比神宮境内が国名勝「おくのほそ道の風景地」に指定
- 令和3年(2021):日本百名月に選定される
参考文献
- 氣比神宮 御由緒・参拝案内(氣比神宮社務所発行)
- 朝倉氏の歴史|福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館
- 氣比神宮が日本百名月に認定|敦賀市